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衰退・存続

明治時代 1868~

1872年、明治政府は、学制を制定し、西洋医学中心の新しい教育制度を整えるとともに、1874年には医制を制定し、西洋7科に基づく試験制度、医業の開業許可を制度化した。浅田宗伯らは、西洋医学一辺倒の医制改革を懸念し、「漢方六賢人の会合」と呼ばれる会合を開催。漢方専門の博済病院の設立、漢方存続運動の活動母体となる温知社の設立と、矢継ぎ早に対策を打ち出す。

しかし、明治政府は1883年、太政官布告により、国家試験に合格しなければ医業開業の許可を与えないとする医師免許規則を制定。これに抵抗して浅田宗伯らが政府に提出した漢医継続願も、1895年の国会第8議会で少数の差で否決された。漢方医学はこれにより、断絶の危機に瀕することになる。

1874

医制発布、医学教育医術及薬舗開業試験並に免許規制改正。(医師免許は西洋医学のみに)

1879

「温知社」を結成、漢方存続運動を展開。

1895
大正時代 1912~

国会第8議会にて改正法案(漢医継続願)が否決される。


西洋医学の短所を指摘し、漢方医学の有用性を説いた書。衰退していた漢方医学が再評価される端緒を作った。

和田啓十郎(1872~1916)

1872(明治5)年長野県松代市に生まれる。幼少の頃、姉の難病を漢方医により治癒されたことから漢方医学を志す。1892年に上京し、済世学舎(現在の日本医科大学の前身)に入学し西洋医学を学ぶ。吉益東洞著『医事或問』に感激、漢方医多田民之助に師事。1910年、苦労して南江堂より『医界之鉄椎』を千部、自費出版。大いなる反響を巻き起こす。1915年、第2版を湯本求真の治験例を加え自費出版。1916年、45歳にて逝去。

参考画像:
【和田啓十郎】 北里大学東洋医学総合研究所 医史学研究所 所蔵
【医界之鉄椎】 ツムラ漢方記念館 所蔵

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