中将姫物語

聖武天皇の天平19年(747年)、かねて子がなく神仏に願をかけていた豊成(藤原鎌足の孫)と紫の前(品沢親王の息女)との間に一女が生まれ、中将姫と名づけられました。

中将姫が5歳の時、母が亡くなり、父豊成は橘諸兄の息女照夜の前を後妻に迎えました。中将姫が8歳の春、孝謙女帝の御前で催された節句の祝賀で、中将姫は見事に琴を弾いて女帝のお褒めを賜ったのに対し、義母の照夜の前は箏の役で不覚をとり、その後、中将姫に憎しみを抱くようになりました。照夜の前は何度も中将姫の殺害計画を立てましたが成功せず、過って実子・豊寿丸まで死なせてしまいました。

中将姫が14歳の時、照夜の前は豊成が諸国巡視の旅に出たのを好機として、中将姫に汚名を被せ、家臣・松井嘉藤太に、ひばり山で姫を殺すように命じました。ところが嘉藤太は、日頃から念仏に勤しみ亡き母の供養を怠らない心優しい中将姫を殺すことができず、照夜の前を欺いて、中将姫とひばり山で隠れ住むことにしました。都に戻った豊成は、中将姫の死を嘆き悲しみましたが、翌年・狩猟で山入りした際に中将姫と再会、都に連れ戻しました。

中将姫は16歳の時、后妃の勅を賜りましたが、世上の栄華を望まず、名藍の聞こえ高い当麻寺に入って仏の道に仕えることを決心しました。こうして中将法如となった姫は、称讃浄土経一千巻を書写した後、当麻曼荼羅を織り上げました。その後、仏道に精進を続けた中将法如は29歳で極楽浄土に導かれていきました。

中将姫が家を出て最初に身を寄せたのが、初代・津村重舎の母方の実家・藤村家といわれ、それを契機に交流が始まりました。中将姫は当麻寺で修行していた頃、薬草の知識も学び庶民に施していましたが、その処方を藤村家にも伝え、それか藤村家家伝の薬・中将湯となったということです。

中将姫