1893年~1945年
創業から終戦まで
1893(明治26)年、故郷の奈良を出て上京した初代津村重舎は、「良薬は必ず売れる」との信念を抱き、東京・日本橋に津村順天堂を創業。
家伝の婦人薬である生薬製剤「中将湯」を売り出した。
中将湯は、その薬効が認められただけでなく、巧みな宣伝・販売方法も奏功して評判となり、準胆道は明治・大正期の売薬業界において確固たる地位を築いた。
重舎は、1919(大正8)年に目黒工場を建設する一方、1924(大正13)年には、生薬の研究所「津村研究所」や薬用植物園「津村薬草園」を開設し、漢方薬の基礎研究と普及に尽力した。
しかし、その後、太平洋戦争勃発直前の1941(昭和16)年4月に重舎は死去。父の名と地位を継いだ2代目重舎も戦争末期に召集された。
そして、1945(昭和20)年の空襲により、順天堂本社は焼失し、目黒工場も大きな被害を受けた。
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1893
津村順天堂創業開店
東京市日本橋区通4丁目7番地(現・東京都中央区日本橋3-4-10)に、津村順天堂創業開店。婦人良薬中将湯本舗の看板を掲げ初代重舎(店主)と店員2名で製造販売。
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1895
日本で最初のガスイルミネーション看板を制作
中将姫の図柄を表現した日本で最初のガスイルミネーション看板を制作、店の2階から屋上に向けて装着。珍しかったアドバルーンも掲揚。 多様なPRにより、中将湯の知名度アップを図り、業績が確実に上昇し始める
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1919
目黒工場が使用を許可される
東京・上目黒の目黒工場が使用を許可される。中将湯の生産のほか、関東大震災には焼失した本店に代わり業務の拠点にもなった。
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1920
創業25周年記念謝恩会
津村順天堂創業25周年記念謝恩会と津村重舎夫妻銀婚祝賀会。帝国劇場に国内の全取引先を招待、昼食観劇会も催した。
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1924
津村研究所を開設
目黒工場敷地内に、津村研究所を開設。薬用植物の研究を推進。生薬、生薬化学、薬理の研究部門を設ける。
津村薬草園を開設
東京府北多摩郡神代村下仙川(現・調布市緑ヶ丘2-8)に、津村薬草園を開設。当初の面積は、約1万2千㎡
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1926
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1930
「バスクリン」を発表
芳香浴剤「バスクリン」を発売
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1936
株式会社への組織改正
株式会社津村順天堂設立。初代津村重舎、代表取締役に就任。長男基太郎は兵役服務中のまま取締役に就任。
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1941
嵐の中のバトンタッチ
初代重舎が死去し、長男基太郎が2代目重舎を襲名し代表取締役社長に就任。
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1945
焼け跡の再出発
B29の爆撃により、東京・日本橋の本社被爆焼失。本社機能を目黒工場へ移転。その後の空襲で目黒工場も一部に爆撃直撃弾を受けて焼失。