ツムラと大塚敬節博士

明治23年高知に生まれた博士は、九州の熊本医専を卒業して開業後、西洋医学に飽き足らず、湯本求真を尋ねて上京した。湯本求真は、明治、大正期に漢方の命脈を保った医家で、和田啓十郎の指導を受け、漢方の治療に従事。後に漢方を科学的に解説した「皇漢医学」3巻を著わした。この著書を読んで感激したのが大塚博士だった。
大塚博士は、東京で求真に師事し、漢方医学を学び直す。そこで得た結論は、漢方医学と西洋医学のそれぞれの特質を生かして、その調和を図ることであった。後に、大塚博士は東洋古医学研究所をつくり、機関誌「古医道」を発行している。さらに日本漢方医学会が創立され、同時に「漢方と漢薬」(月刊誌で後に「生薬治療」と改題)の創刊時には、設立委員として参加された。この頃から重舎と大塚博士との交流が始まっている。重舎が漢方の復権に、薬業界の代表として執念を燃やしていたのに対し、大塚博士は医学会の代表として同じ熱意を特っていた。その著書には、「漢方医学臨床提要」、「東洋医学史」、「傷寒論解説」、「漢方ひとすじ」などがあり、昭和48年に北里研究所に附属東洋医学総合研究所が設置された時には、乞われて初代所長に就任している。大塚博士のような漢方の第一人者を迎え入れたことにより、中将湯診療所に対する評価は俄然高まった。

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