中国伝統医学の模倣
平安時代 794~
日本の独自性を追求、わが国最古の医学書が日本人により編纂された
宋医学、金元医学の導入 丹波康頼 (912~995) 康頼は中国後漢の霊帝の子孫で、日本に帰化した阿智王より数えて八世の孫とされ、針博士・医博士となり、丹波宿禰の姓を賜り、宮廷医丹波家の祖となった。

宋医方と僧医の活躍 栄西 (1141~1215) 栄西はわが国臨済宗の開祖。1168(仁安3)年入宋、1187(文治3)年再入宋し、5年後帰国。臨済禅を伝えた。1199(正治元)年、鎌倉に寿福寺を、1202(建仁2)年には京都に建仁寺を建立。
鎌倉時代 1185~
著者の独自の見解がもり込まれる
鎌倉~南北朝時代は、医療の担い手が宮廷医から禅僧に替わり、医療の対象が一般民衆に拡大した。国内で編纂された医学書の中には、平易な仮名交じり文で記述されるものが登場した。例えば、梶原性全の『頓医抄』、有林の『福田方』などで、著者の独自見解が盛り込まれた画期的なものであった。
当時の文献
金 1115〜 元 1271〜
明 1368
本草学の発展
明清時代の全般的な特徴は、金元時代の医学理論を基盤としながらその拡充が図られたことで、その後の経験・研究成果を加えた医薬書が数多く編纂された。
参考画像:
【栄西】建仁寺両足院 所蔵
【丹波康頼】財)武田科学振興財団 杏雨書屋 所蔵
【医心方】【頓医翔】【万安方】【太平恵民和剤局方】【経史証類大観本草】【内外傷弁惑論】 ツムラ漢方記念館 所蔵