中国伝統医学の日本化

室町時代 1336~

後世方派 李朱医学を持ち帰る

鎌倉・室町時代から江戸時代前期は、中国伝統医学の日本化が始まった時期である。田代三喜は、当時の最先端医学だった金元医学、特に李朱医学を日本に持ち帰った。弟子の曲直瀬道三がそれを広め、江戸前期に興隆を極めた後世方派の礎を築いた。曲直瀬道三は啓迪院という医学校を設立して後進の育成に努め、『啓迪集』など数多くの医学書を執筆した。1528年には堺の豪商で医師の阿佐井野宗瑞が明の医書『医書大全』を日本で初めて活字印刷で出版した。

田代三喜 (1465~1537) 武州越生(一説に川越)の出身。渡明して日本人僧の月湖に金元流の医学を学び、帰国後、鎌倉円覚寺、足利を経て古河に移り住み、「古河の三喜」として名声を博したと伝えられる。

李朱医学を日本の実情に適合させ広める 曲直瀬道三 (1507~1594) 京都の出身。幼くして僧籍に入る、相国寺に居したが、1528(享禄元)年関東足利学校に入り、正文伯に師事して、漢学を修めた。同4年、田代三喜に会って医学に転じ、李朱医学を学んだ。1545(天文14)年京に帰り、医学舎啓迪院を創建し門人を育成。時の権力者、足利義輝・毛利元就・織田信長・豊臣秀吉や天皇家の信任を得、その医療を担当した。

江戸時代 1603~

曲直瀬玄朔 (1549~1631) 明代の医書を通じて金元医学を紹介。 豊臣秀吉に仕え、毛利輝元の療治を行い、文禄の役で渡韓した。後陽成天皇や徳川秀忠を診療し、1608(慶長13)年以降は江戸と京都に隔年に居住した。門下から岡本玄冶、饗庭東庵、長沢道寿、古林見宜などの名医が輩出した。

香月牛山 (1656~1740) 筑前国遠賀郡の出身 江戸中期の後世方派の医家。通称啓益。貝原益軒に儒を、鶴原玄益に医を学んだ。京都にて開業し、著作多数。

当時の文献

明 1368 明清時代では、呉有性の『温疫論』の出版以降、温病学が発展した。

温病とは『傷寒論』でとらえきれない急性疾患が存在することから考え出された疾病概念で、現代中医学理論の重要な柱のひとつになっている。しかし清時代の医薬書は日本にはさほど浸透しなかった。

参考画像:
【田代三喜】【曲直瀬道三】【曲直瀬玄朔】【香月牛山】 財)武田科学振興財団 杏雨書屋 所蔵
【衆方規矩】【本草綱目】【万病回春】【景岳全書】【温疫論】【医方集解】 ツムラ漢方記念館 所蔵