日本の伝統医学・漢方の始まり

江戸時代 1603~

古方派 「傷寒論」と「金匱要略」への回帰を唱える

江戸時代中期、現在の日本漢方の始まりとなる古方派が出現した。観念的な理論を排し、「古の医学を行うことを理念とし、『傷寒論』に基づいて診療を行う」ことを重視した。後藤艮山、山脇東洋、並川天民らの門から優れた後継者が続出し、臨床が発達した。

復古の説の提唱 名古屋玄医(1628~1696) 京都に生まれる。古方派の始祖。中国医籍を読破し、数々の著作をなした。『傷寒論』『金匱要略』の説を敷衍し、古典の重要性を説く。

一気留滞説 後藤艮山 (1659~1733) わが国の古方派の祖とされる。一気留滞説を提唱、百病は一気の留滞によって生じるとし、治療の綱要は順気をもってした。香川修庵、山脇東洋ら多くの門人を育てた。

香川修庵(1683~1755) 播磨国姫路生まれ。伊藤仁斎の門で古学を修め、また後藤艮山に医を学ぶ。『傷寒論』を尊んだが、それにも満足せず「我より古を作る」とまで言った。一方、孔子、孟子(儒教)の教えを崇拝し、儒医一本論を唱えた。

実践的・科学的 山脇東洋(1705~1762) 養祖父の山脇玄心は曲直瀬玄朔の弟子。東洋は後藤艮山に学んだことから古医方を重視。東洋は1754(暦4)年閏2月7日、官許を得て京都六角獄舎で処刑された屍体を解剖させ、門人の浅沼佐盈に観臓図を作成させた。『蔵志』はこの記録を公刊したものであり、わが国解剖図誌の嚆矢として歴史的意義が大きい。

万病一毒論 吉益東洞(1702~1773) 19歳で医を志し、のち曽祖父の吉益姓を襲った。張仲景の医方の研究に傾注し、1738(元文3)年京都に上り医を行い、40歳過ぎて山脇東洋に認められてからは大いに名声を博し、古方派の雄として当時の医界を煽った。主著に『類聚方』『薬徴』『方極』『古書医言』などがある。

腹診法を確立。気血水説を提唱 吉益南涯(1750~1813) 南涯は吉益東洞の長子で京都の生まれ。名は猷、字は修夫、号ははじめ謙斎のち南涯。1773(安永2)年父の跡を継ぎ、医業大いに栄えた。1788(天明8)年の大火で大坂に移ったが、数年後京都三条東洞院の旧地に復した。

本草学の発展

参考画像:
【後藤艮山】【山脇東洋】【松岡玄達】 財)武田科学振興財団 所蔵
【吉益東洞】【吉益南涯】 エーザイ(株)内藤記念くすり博物館 所蔵
【貝原益軒】 北里大学東洋医学総合研究所 医史学研究所  所蔵
【医方規矩】【一本堂行余医言】【臓志】【類衆方】【薬徴】【大和本草】【養生訓】【寺島良安】【和漢三才図会】【用薬須知】 ツムラ漢方記念館 所蔵