江戸時代中期、現在の日本漢方の始まりとなる古方派が出現した。観念的な理論を排し、「古の医学を行うことを理念とし、『傷寒論』に基づいて診療を行う」ことを重視した。後藤艮山、山脇東洋、並川天民らの門から優れた後継者が続出し、臨床が発達した。
復古の説の提唱
名古屋玄医(1628~1696)
京都に生まれる。古方派の始祖。中国医籍を読破し、数々の著作をなした。『傷寒論』『金匱要略』の説を敷衍し、古典の重要性を説く。
香川修庵(1683~1755)
播磨国姫路生まれ。伊藤仁斎の門で古学を修め、また後藤艮山に医を学ぶ。『傷寒論』を尊んだが、それにも満足せず「我より古を作る」とまで言った。一方、孔子、孟子(儒教)の教えを崇拝し、儒医一本論を唱えた。
実践的・科学的
山脇東洋(1705~1762)
養祖父の山脇玄心は曲直瀬玄朔の弟子。東洋は後藤艮山に学んだことから古医方を重視。東洋は1754(暦4)年閏2月7日、官許を得て京都六角獄舎で処刑された屍体を解剖させ、門人の浅沼佐盈に観臓図を作成させた。『蔵志』はこの記録を公刊したものであり、わが国解剖図誌の嚆矢として歴史的意義が大きい。
万病一毒論
吉益東洞(1702~1773)
19歳で医を志し、のち曽祖父の吉益姓を襲った。張仲景の医方の研究に傾注し、1738(元文3)年京都に上り医を行い、40歳過ぎて山脇東洋に認められてからは大いに名声を博し、古方派の雄として当時の医界を煽った。主著に『類聚方』『薬徴』『方極』『古書医言』などがある。
本草学の発展
1630~1714
益軒は筑前福岡藩士で、父寛斎・兄存斎に医学・漢学を学び、黒田光之に藩医として仕えた。京都に遊学して儒者や、向井元升、稲生若水ら本草学者と交わった。「養生訓」の著者としても有名。
1654~1732
字は尚順、堂号は杏林堂。能代の出身。大坂で伊藤玄良の門に入って医となり、法橋の位についた。
1668~1746
京都の人で、通称は恕庵。 山崎闇斎・伊藤仁斎に儒を、浅井周伯に医を、稲生若水に本草を学んだ。 小野蘭山は弟子。
参考画像:
【後藤艮山】【山脇東洋】【松岡玄達】 財)武田科学振興財団 所蔵
【吉益東洞】【吉益南涯】 エーザイ(株)内藤記念くすり博物館 所蔵
【貝原益軒】 北里大学東洋医学総合研究所 医史学研究所 所蔵
【医方規矩】【一本堂行余医言】【臓志】【類衆方】【薬徴】【大和本草】【養生訓】【寺島良安】【和漢三才図会】【用薬須知】 ツムラ漢方記念館 所蔵
医方規矩
17世紀中頃
種々の病項について処方運用の要領を簡潔に記す。名古屋玄医の臨床の実際がわかる。
一本堂行余医言
1788
香川修庵の著になる医学書・病論集。全22巻。修庵の医術・医論を集大成した名著で、香川流古方の真髄を示したものとして高く評価されている。
蔵志
1759
1754(宝歴6)年、京都六角獄舎で処刑された屍体を解剖した観臓図と解説。わが国初の解剖図誌として歴史的意義が大きい。
類聚方
1764
『傷寒論』『金匱要略』の条文を分け、処方別に再編成。113処方を収録。臨床応用に便利で、ベストセラーとなった。
薬徴
1771
『傷寒論』『金匱要略』で用いられる53種の薬物について、その薬能(薬効)を考定。従来の伝統本草の枠から脱却した古方派独自の見解を示す。
気血水薬徴
1800頃
南涯は父東洞の説を修正して気血水説を提唱。その説にもとづき、『薬徴』を全面的に書き改めた書。
大和本草
1709
『本草綱目』に刺激され、日本独自の本草書をめざして作られた。和文で平易に書かれている。
養生訓
1713
日本でもっとも有名な養生書。
一般庶民を読者対象とし、わかりやすく養生の要を説く。
和漢三才図会
1713
江戸時代最大の百科事典として名高い。 良安は大坂で医を開業。『済生宝』の著もある。
用薬須知
1726
日本の本草学を開拓した松岡玄達の本草学の集大成。本草学はさらに博物学の方向に発展していった。