日本漢方の発展・独自化の達成

江戸時代 1603~

古方派が極端な主義に陥った反省から、処方の有用性を第一義とし、臨床に役立つものなら学派を問わず、経験的・臨床的に良所を享受する柔軟な姿勢をとる立場が現れた。

【考証学派】漢方古典を文献的に解明 多紀元簡(1755~1810) 父の多紀元悳に医を学んだ。松平定信の信任を得て1790(寛政2)年、奥医師・法眼に進んだ。翌年、躋寿館が幕府直轄の医学館となるにともない、助教として幕府医官の子弟を教育。従来の古典解釈を反省し、漢方古典を文献学的、客観的に解明しようとした。友人に伊沢蘭軒、小島宝素、子に元胤・元堅がおり、元堅は考証医学研究をさらに推し進め、渋江抽斎、森立之、山田業広など勝れた弟子を育てた。

【折衷派】処方の有用性を最重要視し、後世方派と古方派の良所を折衷 多紀元堅

優れた臨床の手腕を発揮。学派を問わず、長所を採用 和田東郭 (1744~1803) 摂津高槻の人で、1797(寛政9)年法橋。1799(同11)年には法眼に進む。 臨床に長け、腹診を重視した。

原南陽 (1752~1820) 水戸藩医の家に生まれ、京都に遊学して山脇東門や産科の賀川玄迪に学び、江戸で開業。のち父の跡を継いで水戸藩医となって臨床、学問に腕をふるった。

【漢蘭折衷派】
麻酔に通仙散を用いて、世界で初めて乳癌手術に成功
華岡青州 (1760~1835) 京都で吉益南涯、大和見立に学び、漢蘭折衷の外科術を研究。1804(文化元)年、自己の開発した麻酔剤(通仙散)を用いて世界で初めて乳癌摘出手術に成功した。青洲の門人は千人を超えたというが、青洲自身は著述を行わず、その医術は門人の筆記により、写本として広く流布した。

蘭学との折衷を図る 本間棗軒 (1804~72) 水戸の人で、漢方を原南陽に、蘭方を杉田立卿に修学。さらに経学を大田錦城に学び、長崎に赴いてシーボルトに就き、京都では高階枳園、紀州では華岡青洲門で学んだ。江戸で開業して華岡流医術を行い、はじめて大腿切断手術に成功。水戸藩医、水戸医学教授となった。著書に『内科秘録』『瘍科秘録』などがある。

尾台榕堂 (1799~1870) 信濃魚沼郡医家小杉家の4男として生まれる。16才の時、江戸に出て尾台浅嶽について東洞流古方を学んだ。浅嶽の死後、師家を嗣ぎ、診療を継続した。浅田宗伯とともに幕末の江戸の二大名医として称えられた。吉益東洞に傾倒し、生涯東洞流医術を実践した。多くの門人を育成し、また著作多数。

漢方界の巨頭 浅田宗伯 (1815~1894) 信濃筑摩郡出身。中村仲・中西深斎に医を、猪飼敬所・頼山陽に文を学んだ。江戸で名医・名儒と交わり、臨床医として名声を博した。幕末にはコレラや麻疹の治療に腕をふるい、幕府の御目見医師に抜擢され、1865(慶応元)年幕命を受け、横浜駐在中のフランス公使レオン・ロッシュの治療に成功。法眼に進んだ。維新後は皇室の侍医として漢方をもって診療にあたり、漢方医学の存続に尽力した。

本草書

重修草綱目敬蒙小野蘭山1803

小野蘭山(1729~1810)は松岡玄達に学んだ本草の大家。本書は蘭山の『本草綱目』の講義録を門人らが編刊したもので、博物誌としての評価が高い。

本草図譜岩崎灌園1828

岩崎灌園(1786~1842)の編著になる江戸時代最大の植物図鑑。全95冊。極彩色の絵柄が美しい。灌園は小野蘭山の門人。

蘭学の受容

シーボルト1796~1866

現在のドイツ、バイエルン州の医師の家に生まれる。ヴェルツブルグ大学医学部、動植物学、民族学なども学ぶ。1823年出島オランダ商館医として来日。日本に近代西洋医学を伝え、日本の近代化や、ヨーロッパでの日本文化の紹介に貢献した。

緒方洪庵(1810~1863)

備中足守の出身、江戸にて宇田川玄真に蘭学を学ぶ。長崎に遊学、大阪瓦町に蘭学塾を開く。後に北浜に移り、適塾と称する学問所を開き、多くの逸材を輩出した。種痘法の導入、普及に努力した。のち幕府に召され、法眼となる。

参考画像:
【多紀元簡】【多紀元堅】【和田東郭】【原南陽】【華岡青洲】【本間棗軒】【緒方洪庵】 財)武田科学振興財団 所蔵
【シーボルト】 長崎歴史文化博物館 所蔵
【浅田宗伯】 北里大学東洋医学総合研究所 医史学研究所 所蔵
【素問識】 財)武田科学振興財団 杏雨書屋 所蔵
【傷寒論輯義】【叢桂亭医事小言】【砦草】【春林軒丸散方】【内科秘録】【方伎雑誌】【類聚方広義】【勿誤薬室函口訣】【橘窓書影】【重修本草綱目啓蒙】【本草図譜】 ツムラ漢方記念館 所蔵