ツムラの歴史 1954年~1963年

1954年(昭和29年)~1963年(昭和38年) 順風に帆を挙げる

1954(昭和29年) 新女性薬「ラムール」の登場 長い間の津村研究所の成果が実り、中将湯の糖衣錠ラムールが誕生。

劇映画とタイアップしたミスラムールコンテスト

ミスコンはマスコミがアメリカからアイデアを借り、当時の日本で流行していた華やかなイベントであった。
しかし、商品宣伝と劇映画をジョイントさせた当社の「ミスラムール」は、企画が新鮮で、広告業界でも高い評価を得た。

新女性薬「ラムール」の製造風景

1957年(昭和32年) 漢方診療所の開設

薬草を栽培して良質な薬剤を得る。 研究所で成分分析して、薬理を確立する。 診療所で漢方医学の処方により来診者の手当をする。 初代、2代と続いた重舎の長年の夢の実現であった。

同所は、大塚敬節博士を始め、漢方の諸大家を医師として招致した。

中将湯ビル診療所

大塚敬節博士
明治23年高知に生まれた博士は、九州の熊本医専を卒業して開業後、西洋医学に飽き足らず、湯本求真を尋ねて上京した。湯本求真は、明治、大正期に漢方の命脈を保った医家で、和田啓十郎の指導を受け、漢方の治療に従事。後に漢方を科学的に解説した「皇漢医学」3巻を著わした。この著書を読んで感激したのが大塚博士だった。

大塚博士は、東京で求真に師事し、漢方医学を学び直す。そこで得た結論は、漢方医学と西洋医学のそれぞれの特質を生かして、その調和を図ることであった。
後に、大塚博士は東洋古医学研究所をつくり、機関誌「古医道」を発行している。さらに日本漢方医学会が創立され、同時に「漢方と漢薬」(月刊誌で後に「生薬治療」と改題)の創刊時には、設立委員として参加された。この頃から重舎と大塚博士との交流が始まっている。
重舎が漢方の復権に、薬業界の代表として執念を燃やしていたのに対し、大塚博士は医学会の代表として同じ熱意を特っていた。
その著書には、「漢方医学臨床提要」、「東洋医学史」、「傷寒論解説」、「漢方ひとすじ」などがあり、昭和48年に北里研究所に附属東洋医学総合研究所が設置された時には、乞われて初代所長に就任している。
大塚博士のような漢方の第一人者を迎え入れたことにより、中将湯診療所に対する評価は俄然高まった。

1958年(昭和33年) 大宮工場着工

土壌殺虫剤「D-D」の大量出荷の見通しがついたため、 工場の新設をすることになる。 当社企画の映画「薬草の秘密」が完成。

大宮工場遠景

1962年(昭和37年) 台湾津村順天堂の設立

根強い台湾での中将湯ニーズに応えて、 台湾津村順天堂を設立。
戦後の海外進出第1号になった。

台湾向けのパンフレット